優しさについて

 

優しさって何だろうか。

 

親に言われたからか、親がそうだったからか、いつしか優しくなりたいと思うようになった。

 

ただ同時に、優しいってなんだ

 

とも思うようになった。

 

これについてちょっと考えがまとまったので書いておこうと思う。

 

ズバリ、端的にいうと、優しさは2つの要素で構成されていると思う。

 

そして加えておくと、優しさはエゴと深い関係にある。

 

以下に記す。

 

1. 自分が、対象を憂いてエゴで起こす行動

2. 他人が、他人の行動に対して優しいと感じるエゴな気持ち

 

これら2つが合致して、初めて優しさは生まれる。

 

つまり優しさが生まれるには、登場人物は最低二人以上は必要ということになる。

 

優しさを分かりづらくしているのが2の存在だ。

 

一般的に、自分が相手を思って起こす行動の1が「優しさ」とされている。

 

だが私が思うに、それだけではエゴの域を脱しないと思う。

 

俗にいう、優しさの押し付けの可能性ががあるからだ。

 

だから、受取り手や第三者が、そのエゴから生まれた行動をみて「優しい」と感じることが不可欠である。

 

そしてここも注意なのだが、「優しい」と感じるかどうかもエゴだ。

 

こうして、偶然的な要素を含みながら、エゴとエゴが合致することで「優しさ」へと昇華される。

 

優しさが難しく感じられるのは、何が優しいかは結局のところ相手の判断に委ねられるからである。

 

つまり優しさは自分の中にはなく、自分にできる最大限のことは「優しくあろうとする姿勢」だけなのだ。

 

優しくあろうとしても、相手によって否定されることもある。

 

だが一方で、優しさにそういう不確実性が含まれながらも、それでも優しくあり続けようとする人を私は優しい人だと思ってしまう。

 

 

*

 

 

補足

 

1についてだが、間違われやすいので補足しておく。

 

ポイントは「行動」というところ。

 

祈るだったり、思うだったりは優しさに含まない。

 

それらは自分の中に留めているだけで、他人のエゴと合致する機会がないからだ。

 

もちろん、祈る姿を見せて、他人の見える形になるのであれば、それは「行動」に含まれる。

 

つまり相手に認知にされるかどうかが、行動と自分の中で留めておくことの差になる。