生きる意味とかなんとか

 

「生きる意味」ってなんだろう?

 

俺は長い間これを考えるでもなしに考えてきたように思う。

 

結論を言おう。

 

「生きる意味」は見つからなかった。

 

こじ付け臭いことは言えるが、どれも心の底から自信を持てるものではない。

 

ただ、「生きる意味」は依然分からないのだが、考えてるうちに別の道は見つかった。

 

それは「生きるための希望」だ。

 

さっき、考えるでもなしに考えると言ったが、俺は四六時中「生きる意味」を考えていたわけではない。

 

これを考えるときには、ある特徴があったのだ。

 

それはズバリ、精神が弱っているとき。

 

振りかえれば、「生きる意味」を考えるとき、決まって人生がうまくいっていなかったように思う。

 

この法則に気づいてから、疑問の対象は「生きる意味」から「なぜ生きる意味を考えるのか」に変わっていった。

 

なぜ俺は、生きる「意味」を考える・・・?

 

そこで一つ質問を考えた。

 

Q. 仮に「生きる意味」の答えを知ったとして、そのあと俺はどうなりたいんでしょーか?

 

答えは雷も唸るほどの瞬間でわかった。

 

俺は、この人生をまっとうしたかったのだ。

 

この人生を生き抜いて、やれることはやったと満足してこの世を去りたかったのだ。

 

するとなんだ、生きる意味なんて考える必要もないことに気がついた。

 

そもそも生き抜きたいんだから、生きることだけ考えていればいい。

 

「生きる意味」なんて考えるのは、生きたいのに、生きるのが大変で辛いというジレンマから生まれるのだと理解した。

 

これで「なぜ生きる意味を考えるのか」の答えは出た。

 

それは「自分が生きたいと思っているから」だ。

 

これを自覚したらゴールは向こうから近づいてきた。

 

俺が考えるべきは「生きる意味」ではなく、生きるために必要な「自分が生きるための希望」についてだった。

 

「希望」こそ、悩みの終着点だった。

 

俺は生き抜きたい。

 

そして、希望があれば生き抜ける。

 

だから、問うのは「意味」ではなく「希望」だよっていう、そういう話。

 

そういえば俺ショーシャンクの空にが好きだったわ。繋がったな。

 

無意識すげえな。感性ってやつ?

 

大事だな。

 

 

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追記

 

何かある度にこう、たとえば、たとえばなんだろうな・・・。


そのセンチメンタルになった日だったりとか、人を結果的に裏切ることになってしまった日とか、逆に嘘をついた日、素直になった日とか、いろんな日があると思うんですけども、そんな日のたびに、立ち止まって色々考えていたんですよ、僕は。


…んだったら、それはちょっと、もったいないなぁという気がしてきまして。


だったらこう、なんか、なんかあのー、BGMとか鳴らしながら、歩きながら感傷に浸るっていうのが、得じゃないかな、と思って。


だから言ってしまえば、止まっているより、歩きながら悩んで、一生。

 

たぶん死ぬまで、楽しく過ごしたほうがいいんじゃないかなということに、いやー26、7になってようやく気付きまして…。


そういう曲を作ったわけであります。


というわけで、じゃあ、その、「若者のすべて」をやります。

 

https://www.youtube.com/watch?v=Tyeb5hnz0HM

 

 

 

 

届かない

 

周囲から向けられる目に反抗するように、俺もまた周囲を睨み返す。

 

なぜ俺がそんな目で見られなければならないのか。

 

ただ歩いているだけ、ただ用を済ましにきただけ、誓って言うが、俺はこれまであんたら以上に人を傷つけていない。

 

他人に当たるぐらいなら自分で消化する。消化しきれなくて、度々もがき苦しんだけれども、それでもその苦しみは誇りの対価として受け取ってきた。

 

そんな俺でも限界はある。

 

そう不審者然とした目を向けられたら、なんだか本当に嫌なことをしてやろうという気持ちになってくる。

 

あんたらは何の気無しに、たとえ事が起こって後で心情を詰められても、悪気なんて一分もなかったと平然と言うだろう。

 

そういうところにも腹が立つ。

 

無性に、そういう、自覚のないまま他人を追い詰める行動が、もうどうしようもなく醜く思えて吐き気がする。

 

だから俺は睨み返した。

 

図書館の駐輪場でのことだった。

 

子供連れの母親が三組ぐらいいた。

 

三組は互いに緩い顔見知り程度のようだった。

 

ガキは俺を好奇の目で見る。親は当然の如く俺に疑いの眼差しを向ける。

 

その目だ。その目が嫌なんだ。

 

俺はガキの行動を一切無視した。

 

なんなら顔に不快感を表してやった。

 

そうするとガキも咄嗟に判断して興味の対象を俺から別へと移し変える。

 

その後、親が俺の表情から悪意を受け取ったと判断した後で、続けて親の顔を直視してやる。

 

一組、二組目の親は子供に何か話しかける風をして華麗にスルーした。

 

その顔には、顔の皮がピンと張った、何者も寄せ付けぬ強い表情が張り付いていた。

 

それを見て少し狼狽えたが、俺は三組目へ対象を移すことで負けじと気持ちの強さを保った。

 

三組目にも、まず俺の興味を惹こうとする子供に対して邪険な顔を見せた。

 

その子は前二つと違い、俺の反応に対して興味を失うではなくポカンとしていた。

 

少し気になったが、すぐ親の視線を感じたので睨み返してやる。

 

相手は一瞬、狼狽えた表情を見せた。そのすぐ後、その表情の色は悲しみへと変わっていった。

 

それを見て、俺は、胸が痛んだ。

 

酷いことをしてしまったと、逃げ道のない塞ぐような暗い気持ちになった。

 

数歩進んだ後、後ろを振り返った。

 

母親は、無邪気な子を横に添えて、今にも泣き出しそうな、辛さを必死に堪える表情をしていた。

 

その顔は、何かに裏切られたときの俺と同じ表情をしていると思った。

 

そして三組目の子はダウン症だった。

 

俺は嫌な気持ちを胸にしたまま、その場から立ち去った。

 

 

*

 

 

そうじゃない。そうじゃなかった。

 

俺のしたかったことはそうじゃなかった。

 

俺は俺を苦しめるあの目が嫌なだけだったんだ。

 

それで、俺の中に産まれたあの目を振り払うために睨み返しただけだったんだ。

 

 あの親を傷付けるためではなかった。

 

同時にいくつかの悲しみが湧いてきた。

 

一つ確実なのは、自分もあの目の一員になってしまったという自覚。

 

俺は俺の嫌いなものに成り下がってしまった。

 

そしてもう一つ大きなものとして、世の不条理さが避けられぬものとしてあった。

 

俺の嫌いな目は一、二組目だ。決して三組目ではなかった。

 

なのに、真に懲らしめてやりたい相手は華麗に悪意を避ける一方、俺が日頃守りたいと感じる「弱い」人こそ、俺の悪意が刺さってしまう。

 

違う違う違う。憎まれっ子世に憚る。俺はその憎まれっ子達をギャフンと言わしたいのだ。

 

なのに、どうして守りたい弱い者だけに俺の悪意は届いてしまう?

 

なぜこうも上手くいかない?

 

不当な強さを手に入れる憎い奴らを攻撃しようとすると、損をするのは弱い人。

 

これじゃどうしようもないじゃないか。

 

永遠に、憎まれっ子は世に憚ることになる。

 

そして弱い者はもっともっと虐げられることになる。

 

この宿命とも思える意地の悪いシステムが、俺をどうもあのダウン症の子から離してくれない。

 

弱気を助け、強気をクジク?

 

不可能じゃないか。

 

それに嫌なことは自分の側にもある。そんなことしてる間に俺は自分がそこまで強くないことを知る。

 

無力さだけ受け取って、結局何も変えられずに終わる。

 

永遠と続く。人の業なんて言いたくはないが、少なくとも人の生理は人間が築き上げた「良いもの」とうまく噛み合わないことは分かる。

 

俺はこの世の設計者を憎む。

 

俺たちは何を試されてるんだ。

 

ただ遊ばれてるだけなのか?

 

こんなことして、天国すらなかったら、人間は何のために生かされてるんだ。

 

「青春」はエンドレスリピート・ダンス

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夜中目が覚めて、寝つけなかったので音楽を聴いた。

 

最初はオルゴールなんかを聴いていたが、いつのまにか懐メロにたどり着いた。

 

ガリレオガリレイ青い栞

 

君と見たあの花の名前を〜みたいなアニメの主題歌だったと思う。

 

俺が高校1年生だった頃のアニメだ。

 

このアニメのことはよく覚えている。

 

最初まったく知らなかったんだが、ある日部活の女の子に「◯◯に似てる」と言われて知った。

 

そのとき部活の男の子が「いや、××(俺)は△△に似てるよ」と入ってきたことも覚えている。

 

ちなみにこの女の子と男の子は後日付き合った。

 

そういうわけで懐かしいな〜と青春の気持ちを思い出していたわけだが、ここでふと疑問が頭をよぎる。

 

それは以下2つのことだ。

 

--俺の青春はいつ終わっていたんだ?

 

--青春の終わった人生ってどうなんだ??

 

ここのところ求職活動で現実的な話ばかりが耳に入ってくる。

 

新人の給料は18万台が相場で30何万の求人は〜

 

こういう具合だからここずっと心が弾むことがなかった。

 

分かっちゃいるが、やはりどうも水が合わないらしい。

 

そして青春の輝きが眩しくて、やはりどうもそっちのほうが自分は楽しいらしい。

 

だから考えた。

 

そういえば青春って精神的なものだったよな?

 

って。

 

別に18歳とか20歳とか22歳に青春の分かれ目がスパッとあるわけではなくて、なにかの本で読んだが、青春とはいかに心が若いかなのだと。

 

この理屈でいくと俺の心はいつのまにか老い衰えていたということになる。

 

それはまずい。

 

というわけでもう少し青春を続けたいと思う。

 

もう少しってのを延々と言い続けてできれば生き絶える直前まで青春したいと思う。

 

ただ、打算で行くところはきちんと打算する。

 

💰の関わることはきちんとしようと思う。

 

やっぱり大事なことだからね。

 

ただただ、あんまり考え込みすぎないことも大事ね。

 

音楽があってよかった。

 

音楽 と 勉強 と 何か

 

これ俺にとって大事な3つ。

 

 

 

優しさについて

 

優しさって何だろうか。

 

親に言われたからか、親がそうだったからか、いつしか優しくなりたいと思うようになった。

 

ただ同時に、優しいってなんだ

 

とも思うようになった。

 

これについてちょっと考えがまとまったので書いておこうと思う。

 

ズバリ、端的にいうと、優しさは2つの要素で構成されていると思う。

 

そして加えておくと、優しさはエゴと深い関係にある。

 

以下に記す。

 

1. 自分が、対象を憂いてエゴで起こす行動

2. 他人が、他人の行動に対して優しいと感じるエゴな気持ち

 

これら2つが合致して、初めて優しさは生まれる。

 

つまり優しさが生まれるには、登場人物は最低二人以上は必要ということになる。

 

優しさを分かりづらくしているのが2の存在だ。

 

一般的に、自分が相手を思って起こす行動の1が「優しさ」とされている。

 

だが私が思うに、それだけではエゴの域を脱しないと思う。

 

俗にいう、優しさの押し付けの可能性ががあるからだ。

 

だから、受取り手や第三者が、そのエゴから生まれた行動をみて「優しい」と感じることが不可欠である。

 

そしてここも注意なのだが、「優しい」と感じるかどうかもエゴだ。

 

こうして、偶然的な要素を含みながら、エゴとエゴが合致することで「優しさ」へと昇華される。

 

優しさが難しく感じられるのは、何が優しいかは結局のところ相手の判断に委ねられるからである。

 

つまり優しさは自分の中にはなく、自分にできる最大限のことは「優しくあろうとする姿勢」だけなのだ。

 

優しくあろうとしても、相手によって否定されることもある。

 

だが一方で、優しさにそういう不確実性が含まれながらも、それでも優しくあり続けようとする人を私は優しい人だと思ってしまう。

 

 

*

 

 

補足

 

1についてだが、間違われやすいので補足しておく。

 

ポイントは「行動」というところ。

 

祈るだったり、思うだったりは優しさに含まない。

 

それらは自分の中に留めているだけで、他人のエゴと合致する機会がないからだ。

 

もちろん、祈る姿を見せて、他人の見える形になるのであれば、それは「行動」に含まれる。

 

つまり相手に認知にされるかどうかが、行動と自分の中で留めておくことの差になる。

 

寄生獣を読んで

 

岩明均作: 寄生獣(講談社 完全版)全8巻

 

読了。

 

間間にある、「読者の問いかけに  作者が答えた。」という小話がいい。

 

活字の伝える力を再確認できた。

 

岩明いわく、漫画の終わり方には2パターンあるらしい。

 

前者は、物語が死んでようやく終わる終わり方。

 

人気がない、だったりネタ切れとも言える。

 

岩明の言葉を借りれば、人気と作者のやる気がある限り永遠と続くので「無期限進行型」。

 

まあ平たくいえば週刊少年ジャ◯プ。

 

後者は、物語が完成して終わる終わり方。

 

無理な引き伸ばしをせず、無駄な要素も加えず、ただ完成へ向かって収束していく作品のこと。

 

岩明のいうには、手塚治虫の作品がそうらしく、これを「作品完成型」と呼ぶ。

 

寄生獣は後者を目指して作られたらしい。

 

なるほど、通りでメッセージ性が強いと思った。

 

そして俺の読みたい漫画も作品完成型だということが分かった。

 

少年の頃はNARUT◯という漫画が好きだったのだが、あれも引き伸ばしの手にかかってからは風体が変わったように思う。

 

話が脱線してきたな。

 

そろそろ本編の感想を言っておこう。

 

地球の生命はみな地球の寄生虫という流れは面白かったし、それを踏まえた上で人間は他種の完全な理解は出来ない、だから人間の視点で人間が考える最善を尽くすしかないというのはそうだと思う。

 

また、最後に他種族(ミギー)が人間を肯定したこともこの考えの先に希望を灯したように見えてよかった (ミギー曰く、人間があれこれ悩むのは心に余裕があるからで、それこそが人間の取り柄であり素晴らしい部分)。

 

さらに浦上が見せたように、同種(ex: 人間同士)であっても完全な理解を共有できるとは限らないという、ともすれば人間至上主義へ向かいがちな風潮にきちんと針を刺しているところも好きだ。

 

うーん。

 

ただ、どうなんだろうな。

 

違和感が残るんだよ。

 

自然観はなるほどそう思うが(人間中心主義<相対主義)、次の行動段階においてはこれじゃ今と変わらない。

 

つまり民主主義バンザイってことだろ?

 

それって結局は数の暴力に繋がっていくじゃないか。

 

現実社会見てどうだろう、民主主義がそんなにいいだろうか。

 

あーダメだ、分からなくなってきた。

 

ただふと恋人関係なんかを思い出したんだけど、自由恋愛になって人は本当に幸せになったんだろうかと思うわけよ。

 

お見合いとか親が結婚相手を決めるとか、わりとそういう古い制度っていうのは人間には合ってたんじゃないかなぁと。

 

つまりだな、精神の高貴さを優先したり理屈上の最善を考えたりするのは最もだけども、そればっかり先走りして生物としての人間と乖離してるような気がするんだわ。

 

ほら、お見合いとか親が決めるのだって 、人間には慣れというものがあるのだからそんなに悪くはならなかったでしょ。

 

まあなんというか、精神性を求めすぎて、社会的動物としての「人間」の面が優先させられすぎていて、生物としての動物、即ち「ヒト」の面が疎かにされ過ぎてるなぁというのが俺の心の底に沈んでる。

 

じゃあどっちをという話ではなく、これはバランスになるのだけど、岩明の視点だと、つまり民主主義バンザイだと、理屈や精神の高貴さばかりが重視されて「人間」の面だけ重視されてどうもなぁという話。

 

とはいえ民主主義に変わるいい案というのも思いつかない。

 

だから俺の提案としては、「人間」の面と同じぐらい「ヒト」の面を全体で重視するということを憲法なんかに組み込んだらどうだろうと思う。

 

これは理屈の世界では相性がよくないから、数学で言う公理みたいなもんだと思ってくれればいい。

 

まあ書いていて思ったが、俺の方こそ妄想じみてて漫画みたいになってるな。

 

大体、民主主義とは何かとか分かんねえのにイメージで書いたわ。

 

あー、無知晒しちまった。

 

終わりが見えないのでここらでやめとこう。

 

漫画は「作品完成型」が好きだが、どうも俺自体は「無期限進行型」らしい。