間違っていた
自分が間違っていたと認めることは難しい。
道を引き返すことは尚難しい。
自分の道を行くということを言い訳にし、人との調和を蔑ろにしていた。
とはいえ、人との調和の中で生きたとしてもそれで満足するわけではない。
俺はそこから抜き出して今に至るのだから。
ということは結局向き合うべきことと向き合わなければいけないということになる。
これを避ければどの道も行き止まりだ。
不確実な物事の中で生きる決心をする、つまりはそれが人生ということなのかもしれないと思い始めている。
I am made of others.
最近、「何者」という言葉をよく目にする。
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「何者」にもなれていない自分はまだまだーーーby 20代 新卒 社会人
子供の頃はきっと私も「何者」かになれるとーーーby 独身 女性
あなたは「何者」ですか?ーーーby 30代 自称コンサルタント
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この現象がいつから起こったのかというと、私の思い至る限りでは
「何者」という映画(原作:朝井リョウ)が公開されてからだったと思う。
当時私はちょうど大学生で周りは就活に沸いていたのだが、彼らはしきりにこの「何者」という言葉を口にしていた。
将来像をイメージするのに使い勝手がいいようだ。
さらにこの「何者」という言葉にはどこかヒエラルキー的なものがあるので、面接官も積極的にこの言葉を採用していた。
そういうわけで広い世代に支持された「何者」という言葉だが、この言葉自体とそれの持つ意味自体は特に目新しいものではない。
朝井リョウ原作の映画が何を提供したのかというと、つまりは共通認識だ。
自分はこれこれこういう人になりたくて云々という、全員が考えたことはあるけれど端的に表現しづらい感覚に「何者」という名前を与えたのだ。
これによって、モヤがかかって実体の掴みづらい感覚に対して、個々人はしっかりとした形を手に入れることができる。
だが果たして、この形は本当に私の感じていたものソノモノだろうか?
私は、それは正確ではないと思っている。
他人に与えられた形は、例えると既製品みたいなものではないかと思う。
100%理想の形ではないけれど、そこには及第点は超えているのでまあよし!という妥協が含まれている。
「何者」もそうだ。
個々人が抱える感覚や伝えたいことは「何者」の一言で代弁できるものではなかったかもしれない。
だがおおよその方向性は間違っておらず、広く知られた言葉なので使ってしまう。
*
そしてここからが本題なのだが、言葉だけでなく人格にもこれと同じことが起こっているのではないかと思う。
つまり、「私は外的要因で出来ている」ということだ。
外的要因とは、他人の他にも育った土地の湿度や温度、風景や匂いや読んだ本など、自分が知覚できるすべての物事を含んでいる。
そしてこれは「身の回りにあるほど強く作用する」。
遠くの戦争孤児の映像を見ても大した同情心は湧かないが、身近で苦労している貧乏人には湧くことを考えれば分かりやすいと思う。
人はたまに真っ白なキャンパスボードに例えられることがあるが、これもまたとても秀逸な例えだと思う。
ということは、ここから応用編だが、「自分のなりたい形」があるのなら、まずは身の回りにそれを用意するのが最大の近道ということになるのではないか。
伝わりづらいと思うので、「何者」のように便利な共通認識を利用させてもらうと、「まずは環境を整える」ことから始めるということだ。
真面目になりたいなら真面目な人たちの輪に入り、ヤンチャならヤンチャ、お金持ちならお金持ち、スポーツ選手ならスポーツ選手、、、
ポイントはできる限り全ての時間をなりたい者に捧げるということだ。
聴く音楽から読む本まで全てだ。彼らの好むものを知り、彼らと同じような行動を取る。
It's all.
それが全てだ。
自分は何で出来ているか。
あの時の行動は、あの時の発言は、何に影響されていたのだろうか。
何に触れるかってとても大事なんだな。
阿部寛、それとも堂本剛か?
サイト制作界隈で有名な話がある。
知り合いがサイトを作ってくれと頼んできたとき、サイト製作者は必ず、
と確認する。
答えは各々の公式サイトを見てみればすぐ分かる。
阿部寛 公式ホームページ: http://abehiroshi.la.coocan.jp/
堂本剛 公式ホームページ: https://tsuyoshi.in/
URLは踏まない主義の方のために答えを言うと、両者の違いはサイトデザインのリッチさだ。
阿部寛のサイトは見ているとインターネットの黎明期を思い出させるようなシンプルな作りに対して、堂本の方は回線の弱い者にフラストレーションを与えるほど重いサイトになっている。
この話を聞いてあなたはどう思っただろうか。
私はどちらかというと阿部寛で充分なんじゃないかと思うタチである。
要はサイトは情報が分かりやすく伝わればそれでいい。むしろ凝ったアニメーションは回線を圧迫するのでない方が助かるとも思う。
デザインに凝りたい気持ちも痛いほど分かるが。それでもやはり私は阿部寛を選ぶ。
白黒つけなくていいという人もいるが、私はこうして自分の感性を再確認することは大事なことだと考えている。
ここで阿部を選ぶか堂本を選ぶかで、おそらく向いている職業やライフスタイルなんかもだいぶ変わってくるだろう。
私が阿部サイトを好むのは、何事にも意味を求めるタチだからだと思う。
意味を明確にした上で、無駄なことを嫌い、必要なところに必要な分だけエネルギーを注ぐのだ。
堂本サイドに憧れがないことはないが、自分というものはなかなか変わらないもので自分の特性を見極めてやっていこうと思う。
お前は・・・お前は・・・
どこに向かっているんだ。
今日は一日中ベッドにいた。
日が昇るまで起きて寝て沈めば起きてベッドで横になっているだけ。
何かを変える決意をしなければ動くことは決してない。
それは運命の方かもしれないし自分の行動のほうかもしれない。
停滞は場の水を腐らせる。
海の記憶が蘇る。汚い水では生きていけない。
澄んだ水を求めて移動して移動して外敵がいて身を守って増えて寝て起きて食べて衰弱してサイクルを繰り返す。
だが俺の意思は二度同じ経験をすることはない。
今が全てになりそこが終着点になる。
始まりは終わりを告げる。
終わりが来ても始まりが続く。
歩み続ける背中には終わった何かを背負っている。
俺はこの道を歩き続けている。ベッドの上でいいのだろうか。
いいや、そろそろ決意をする頃だ。
俺はもう一度飛ぶ準備をする。
ジャンプは有害
「人間は皆平等である。」
日本の初等教育で多くの人がこのように教えられたと思う。
そしてその思想を少年は週刊少年ジャンプを通して育む。
ジャンプは友情・努力・勝利をテーマに掲げているが、ご存知の通り作品で活躍するのは「血統」を持つ選ばれし者だけである。
ドラゴンボールの悟空はサイヤ人であり、ワンピースのルフィはDの一族であり、ナルトの主人公は火影の子供。
クリリンやスモーカー大佐やロック・リーは強い思想を持ちながらも特別な血がないために活躍の場が与えられていない。
努力の天才ですら所詮万民の民ということか。
大方の少年はこのような虚構を信じ、その大半が高等教育を受ける頃には見事に裏切られている。
努力をすれば・・・?恋愛は誠実に・・・?善人でいれば・・・?
そして少女の方もまた何の媒体によってかは知らぬが恋愛について王子様だの学園系だの大きな虚構を植え付けられている。
男女に共通するのは押し付けられた理想から人間の欲望が省かれていることだ。
分かりやすいのは性欲だろう。
出来もしない理想を押し付けやがって。
そう思わないこともないが、思ったところで変えようとも思わない。
結局そこが問題になるのだ。いつも。
物語に惹かれる
俺はとことん物語に惹かれる。
好きな本を思い浮かべるとほとんどが物語調で書かれたものである。
聖書だって物語風に書かれているわけだから、惹かれるのは人間に共通した性質かもしれない。
まあ理屈は置いといて、とにかく物語はいい。
いつか一つぐらい小説を書きたいなと思うぐらいには夢中になれる。
とはいえ、物語の一体何がそんなにいいのだろうか?
関連性だろうか。しつこく続く話の繋がりに何かしら人間の本能を刺激するものがあるのだろうか。
人間が音楽を好むのはそのリズムが胎児の頃に慣れ親しんだ心臓の鼓動に似て安心できるからだと聞いたことがあるが、それに似たような具合で物語を好むのも胎児とは言わずも人間の成長の過程で何かしら慣れ親しんでいるからに違いない。
心のどこかに閉まっている。
それなりの貧乏性に成るまでの話
夕方。外食*1 しようと思いクーポンを探し始めた。
この時ふと、自分の貧乏性はすこし度を越してるんじゃないかと頭によぎった。
財布を開くときはいつでも厳しいラインで割に合うか考えてしまう。
見る人が見れば、貧乏性極まれりと驚嘆するぐらいには出来上がっているだろう。
どうしてこのような人間になったのか。
じわじわと考えているうちに自分に元来備わっている怠け癖と、ある種の苦労が原因だと気づいた。
私は手が抜けるものなら抜くし、なるべく今あるものの内で済ませてしまいたい。
だから支出に関しても、増やすことには目が行かず、出て行くお金をいかにコントロールするかに情熱を傾けていた。
すると当然入ってくる持ち金は減っていくので、生活は困窮し、なにかと苦労をする。
特に家に関するエピソードには事欠かない。
部屋にベッドしかないのは序の口で、ある時は部屋のサイズが、信じられないかもしれないが、キッチン一つ分しかないということもあった。
しかもその部屋はやたら害虫が出てくるが、他に行くあてもないので嫌々住んだ。
そうこうしていると、人間いつかは慣れるもので、この生活レベルの低さすら苦にも思わなくなってくる。
そしてようやくそれなりの貧乏性が一人出来上がるという仕組みだ。
理屈を考えていき、一人ふむふむと納得しているうちに、突然一人の人物が私の頭に浮かび上がった。
母親だ。
母親も私同様貧乏性を備えた一人だった。
ファミレスへ行っても水しか飲まなかったことが印象に残っている。
当時は、それもこれも子供達を大学に行かせるための節約だと思っていた。
だが今になって思うことがある。
それは、母親もある種の苦労をしたのではないかということだ。
私がキッチン一つ分の部屋で住むことに抵抗がなくなったのと同様、いつか若い時に生活に関する苦労に慣れてしまう環境にいたのではないか、と思っている。
そうであるならば、報われてほしい。
私が両親を養うにはあと8年ぐらいはかかりそうだが、そういう人は報われねばならないと思っている。
*1・・・マクドナルドのこと